2015年1月

髪を切った。外へ散髪にも行かないので髪はボサボサに伸び放題。切り甲斐もある。切り終わってみると、若返ったように印象が違う。本人の気分はどう変わっていたのだろうか。しばらくしてから、襟足の部分をもう少し切った方が良いかなと感じたので尋ねてみると、「このままで良い、襟足が長い方が良い」との事で、髪型に多少でもこだわりを持っているのは喜ばしい事だ。

海鮮系が美味しそうな和食のお店へ外食に行く予定であったが、当日になって、調子が悪いし、行っても食べるものがないからという事で結局中止に。いつもの事なのだが。歯医者に通ってもらって歯を整えてくれれば、食べる事も出来るようになるのかもしれないが、過去に行きつけだった歯医者までは少し距離があり、かつ、通うとなると頻度高く通う必要があるのでそれが辛いとの事。探せば歯医者の一つや二つでもきっとあるだろうと思うので、そこに行ってもらえればと思うがどうする働きかけるのが良いだろうか。色んな食べ物を取り入れる事によって栄養がとれないばかりか、噛むという行為自体が出来ない事によって色んな悪影響が出てしまっていそうだな。

専門的な技能を持っている訳でもないし、無理矢理外に連れ出す事も気が引けるので、同じ事の繰り返しを少しだけ強引に遮って日常に変化を与える事位だろうか、自分に出来る事としては。

毎朝、大体同じ時間に起き、布団の中でお気に入りの戦国ドラマを見て、見るのに疲れたら眠り、眠るのに疲れたら目を覚ましてまたテレビを観始める。夕方位になったら着替えをして何時もと変わらないスーパーまで何時もと変わらないルートで車を走らせ、これまたルーティン化してしまっている食材を買って帰路につき、夕飯の準備を行う。夕飯自体は作るが、主に食べるのは食べやすい素麺。食事が済んだら片付けをし、お風呂に入って、眠りにつく。そしてまた朝を迎える。

少し部屋の雰囲気を変えてみたり、いつもは外出しない時間帯に買い物に行ってみたり、荷物を送る事で配達の人と一言二言でも会話するような状況をつくってみたり、いつも通うスーパーではないスーパーで買い物をしようとしてみたり、普段買わないような食材を選んで買ってみたり。そういう事位かなと思っている。

【野口整体記10】技術以前の技術、胸

・技術以前の技術としての間合い
相手を如何に観察するか、観察した上でどのような施術を行うのかは大事で、毎回の稽古でやっている事だけれど、それらの観察や技術以前のものが施術の効果に与えるものは大きい。
例えば、愉気をやる時の間合い。実際に自分が実験台になって経験した。「うつ伏せになってください。」と言われてから、呼吸にあわせて手がかざされると違和感はない。けれど、うつ伏せになってからしばらく間が出来てしまうとムズムズしてしまい身体を動かしてしまった。これは、普段から愉気とはこういうものだ、という先入観を抜きにして他の人が施術を受ける立場だったとしても違和感を覚えそう。

・技術以前の技術としての姿勢
技術以前の技術として同じ位相で語られる事に姿勢の事もある。先生曰く、モラルの事はあまり言わないけれど姿勢の事はうるさく言っています、との事だったが本当によくおっしゃる。身体を使った実験が面白かった。「良い愉気の姿勢とはどのような姿勢か?」という問いがあったとして、それを実際に検証するのだが、検証の仕方としては、実際に愉気の姿勢で相手に押してもらってその姿勢が崩れなかったら良い姿勢だという話。良い具合に脱力をしていれば相手がいくら力で動かそうとしても中々動かない。
「安定している姿勢とはどのようなものか?」という問いに対して、あーだこーだ理論を並べて検証を行うよりも実際に身体を使って検証した方がてっとり早いし、言語を使うよりもよっぽど客観的であるという話は耳が痛かった。

・胸と高齢者


【野口整体記9】活元操法

・活元操法
活元操法というものを始めて行った。ざっくりとしたやり方としては、相手の背中に手を当てて、手を動かしたい方に手を動かしていくというもの。やっている間は特に何も考えなくてもよくて、手を動かしたい方に動かしていれば、結果的に手をあてるべきところに手があたっている、という不思議なお話。

やった後に「操法の捉え方が変わってきませんか?」という話が先生からあった。「人間の限界」に関する事がおっしゃりたかったのだと。一つは、人間が持っている理性に関する限界、もう一つは、人間が他人に及ぼす影響力の限界。

・脛内側の操法
脛の内側を操法してもらった時は猛烈に痛かった。消化器の調整に関わる箇所で女性なら生理痛、あとは下痢の時に使うと下痢がとまったりする箇所であるよう。生理痛や下痢に思い当たる節がないので何とも不気味だ。

この操法の時の左手(相手を右脚が対象の場合)の使い方。自分の意図としては、右手を手前に押してくるのだから、左手は反対側に力を伝える事によって、力の力点が中心に集まるのではないか、というものだった。ただよくよく考えてみれば、これだと右手と左手の中間点に力は集中してしまうから、右手を当てているところには力が集まらない。右手がある方に力を伝えるためには、左手で右手側に力を集めてくる事になる。そうなると、左手で脛側へ締める力の使い方をする。更に細かい力のニュアンスは言葉にしづらいな。

西荻窪「はつね」

現時点で一番お気に入りのラーメン屋さん。

昭和の時代を経験していない人でさえも「昭和で時が止まっている」という表現をせずにはいられないような外観を潜り中へ入ると、6席のカウンター席のみ、店主と奥さんの2人でこじんまりと切り盛りをされているお店。(ちなみに店主は剃髪なさっていて、修行僧のような風貌。)お洒落なFMラジオではなくAMラジオが流れている点もノスタルジックを助長する。

メニューにはタンメンとラーメンしかないという潔さ。(トッピングでワンタンをつける事が出来る。)店主は客と簡単に挨拶だけ済まして無駄話どころか世間話さえも全くなさらない。故に、客同士の会話も憚られる空気になっており店内は静寂に包まれている。或は、店内の空気感であったり店主の雰囲気が、客から店主に話しかける気を削いでおり結果的に世間話が生まれない空間になっているだけ、というのが正確な表現かもしれない。どちらにせよ、その静寂が嫌悪感につながるといえば全くそんな事はなく、かえって心地良い。

注文を終えると店主の動きに自然と目がいってしまう、そしてその所作の一つ一つに無駄がなく兎に角美しい。チャーシューを一枚一枚丁寧に切る所作であったり、野菜を炒めながら味見をする時の表情だったりについつい見入っていまう。初めてここを訪れた際、ここは高級寿司屋か、はたまたお寺か、と思う程の緊張感を感じた。この辺から店主の事が本物の修行僧にしか見えなくなってくる。

待つ事数分、味、材料共に気を全く奇を衒っていない非常にシンプルなタンメンなりラーメンが提供される。とにかく美味しい。味についてはこれ以上何と言ったら良いかわからないし言う必要性も感じないが、美味しさ以外に感じた事があった。それは、このタンメンは目の前の店主そのものだ、という事。

話が少しオカルティックな方向に進んでいる気がしないでもないが、タンメンのシンプルさ、店主のシンプルさ、「はつね」というお店のシンプルさが完全に調和して一気に押し寄せてくる感じ、とでも言おうか。過去に料理を食べて一回もそんな考えが浮かんだ事はないのに。このお店の事を他人に伝えたくなってしまうのだが、そういう時には、「タンメンを食べているのだけれど、タンメンを食べているのか、店主を食べているのか、わからなくなってしまう程のタンメンであるよ。」と説明する事が多い。

と同時に。このような仕事の仕方をしたいものだとも思う。その人が提供するものと、その人自身との間に矛盾がないような。その人が提供するものに対して、必要以上の言葉を用いてその人から説明をなされなくても相手に伝わってしまうような。

後々調べてみるとメディア露出とか一切していないらしい。そういう姿勢を知るとまたグッとくるものがある。とにかく規模を大きくして店舗を増やして!店員は大きな声で元気よく!お店のこだわりを広告やら張り紙やらネットやらを駆使してとにかくアピール!みたいなお店が多い中で、本当に希少だ。

彼らは、「この味を少しでも多くの人に知ってほしいんです。」と言うのだろうし、それはそれなんだろうけれど共感は出来ない。小さいお店だけれど、愛想第一で元気にやっみたり、メディアにやたらと露出をすればもっとお客は増えるのかもしれないけれど、店舗展開もせずにコツコツと目の前の客を大事にしながら商売なさっている。「一人でも多くの人に…」という仕事の仕方をしている人はどうも信用出来ないようだ、「ただただ納得のいく味をつくりたい」という仕事の仕方に共感する。

久しく伺っていないので、近々また。

ヒッピー

「正直、社会なんてどうでもいいんですよ。社会を変えたい人がいたとして、そのために事業を起こすっていうのがよくわからない。別に社会を変える事自体に否定的な意味ではなくて、社会を変えたい、そのために事業を起こす、っていう論理がよくわからない。社会が変わるっていうのは結果論でしかなくて、社会が変わる時っていうのは誰かがある生き方をしていて、それに感銘をした人が真似をするようになってそれがどんどん拡がっていくっていう流れが自然だと思うんですよね。あまりにも社会を変えたい、とか言っている人たちの生活や暮らしっていうのが抜け落ちてしまっているように自分は感じられてしまうから、そこに胡散臭さを感じてしまうんですよね。」

という旨の発言をした。すると、「それを突き詰めていっちゃうと、ヒッピーになっちゃうんじゃない?」という言葉を一緒にいたある方にもらった。ヒッピーに近づいている実感というのは今まで全くなくて、寧ろ胡散臭い人たちだなとしか思っていなかった。言われた時は彼の発言が何だかわかったような分からないような感じであったが、自身の咀嚼しておきたい話である事には間違いなさそうだ、という感覚は持った。

ヒッピーになってしまう、とはどういう事なのか。ヒッピー像を簡単に定義すると、山奥で自給自足の生活をしている人たち。何者、何物にも依存せずに、何かに対して刃向う事もしようともせず変化させようともせず、ひたすらに自身が思い描く理想の生活を実践していく人たち。多分、彼の言いたかった事というのは、社会に対して関心を持たずに自分の暮らしだけにしか関心を持たないとなると、最終的には一人で孤立するしかなくなってしまうんじゃない?という旨の事が言いたかったのではないだろうか。

彼から見えている自分というのは、社会にも他人にも関心がなくて、さらにはお金を稼ぐ事にも関心がなくて、自分にしか関心が向いていない人間、という感じだろうか。そうだとするならば、誤解を与えている部分は大きい。社会や他人に関心はあるけれど、それを無理に変えようとする事には関心がないだけであって、お金は沢山持っていたい。

自分が言いたかった事というのは、改めて何だったのだろうか。社会に対しての振舞いと、その人の生活や暮らしの場面での振舞が一致しているかどうか、という事かな。その時は環境やエコについての話をしていたから、それを例に出すと、「環境にやさしい〇〇をつくりたい」とか言っている癖に、その人の暮らしや生活では、ゴミをポイポイ捨ててみたり、ゴミ捨てで分別せずに適当に出していたりみたいな人がいたとしたらその人の事を胡散臭いと思ってしまう。その生活を突き詰めていくと生きている事自体が環境に悪いから山奥で自給自足、という話になっていくのかもしれない。ここまで書いてみて、彼の言いたかった事を今度は自分が誤解していたのかもしれない。生活や暮らしを大事にするとして、それを突き詰め過ぎてしまうと、社会から孤立してしまうのではないか、という事を彼は言いたかったのではないだろうか。

先日、"ある方たち"を対象に就業支援を行っている会社の方と話す機会があった。話を聞いていて一番聞きたかった事は、"ある方たち"が暮らしやすい社会をつくる事を目的として事業をやっているのはわかったけれど、ではその会社で実際に"ある方たち"を雇っているのかという事だった。今は余裕がなかったとしても将来的には見据えていさえすれば、と思いながら聞いてみたが、あまり納得感のある回答をもらえなかった。別にその会社が事業をしっかり成功さえさせていれば、"ある方たち"をその会社で雇っているかは些細な事ではないかもしれない。虫歯があるけれどそのまま放置している歯医者、野菜を大量に作っているけれど農薬を沢山使っているから自分の家では食べない農家、と同じように感じてしまった。他人に対して、"ある方たい"を就業するようにお願いするならば、まず自分の会社で雇う事が何よりも大事なのではないかと。

自分の感覚というのは、どこかおかしいのだろうか。社会を変えたい、とか、より良い社会をつくりたい、とかの言葉が嘘にしか聞こえないのだ。いや、本当に社会を変えたくて自分の身なんてどうでもいいんだ、って思いながらやっているだっていると思うし、他人と自分の境目がなくなっていて他人が豊かになる事がそのまま自分が豊かになる事だから、他人のために自然とやれている人もいると思うし。ただ、そういう人たちの話を聞いていたり、文章を読んでみたりしても、その人の生き様というかその人自身が自分には感じる事が出来ない。

(書きかけ)

【咀嚼】『うつしみ』園子温

女子高生がおでん屋の店主に一目ぼれしてしまう話。

身体をテーマにつくられているらしい。舞踏家と、服のデザイナーと、写真家が同時に出演している。身体というテーマがあたえられた時に、なぜあのような映像を撮ったのか。

彼女はセックスがしたくてしたくてたまらない。店主にストレートにセックスしたい、と懇願する。はじめは受け入れてもらえなかったが、次第に店主もその気になってきて、結局セックスをする。でも、セックスをした後は彼女はどっかに消えてしまう。店主はセックスしてからその子の事が気になり始めてしまう。

しばらくたってから彼女を見つけて付き合ってほしい、というが、彼女は好きな人がいる、という事を言われる。彼女は付き合うとかそういうのはではなくて、セックスがしたかっただけだった。

自分自身がずっと関係性の事で疑問に思っていた事が映像になっているようだった。
付き合うとか付き合わないとか、そのような規範を前提にしてしまう関係ではなくて、もっと一瞬一瞬の関係はないものだろうか、という疑問。彼女に対して前に好きだといっただろ?とか、セックスしたじゃないか?とかそういう事は通用しない。彼女は今好きな人がいる。それに対していくら理論武装しようとも通用しない。

やっとその事に彼は気づいて如何に彼女を説き伏せるかを考えるよりも、自分も彼女位のペースで走れるようにならなければいけないと思い、トレーニングを始める。
それこそ、良い関係だなと。彼女が振り向いてくれない時に、自分たちが付き合っているんだからと正論をかざして相手を縛りつけるよりも、自分を痛めつけてトレーニングして、相手よりも走れるように努力する、相手がついてきてくれるかどうかはその結果でしかない、という関係性。

さらにオチがあって。結婚する事になって結婚式をあげようとなった時に、タクシーに乗り込んでしまう。あれ程、走る事に重きを置いていたのに、あっさりタクシーに乗り込んでしまった事に愕然として彼は走ろうとする。それで、彼女も仕方ないなとなって彼女も一緒になって走りだす。

【咀嚼】『燃えよ剣』司馬遼太郎

土方歳三はまるであなたみたいね」という言葉を尊敬する御方がもらったことがあるらしい。そのきっかけになったのがこの本だったようなので、そこから土方歳三に関心を持つようになった。

時は明治維新以前。外国が日本に入ってくるという時代に、それを排除しようとする機運が高まっていた。その時代、排除する側の先頭にいたのが幕府。今でいう内閣のようなものだ。将軍が総理大臣みたいなものだろうか。それで、幕府は外国を排斥しようとするのだけれど、弱々しい幕府では外国に負けてしまうからまずは幕府を倒す必要がある、と幕府を倒そうと動きだすような武士が増えてきた。そこで、幕府を守るための存在が新撰組という感じだ。新撰組の中でも、土方歳三の役割は将軍である。大将がいてその下につかえるナンバー2。

グッときた点は、思想とか議論を嫌うところ。それよりも、戦うという事こそ自分の役割としている点。大将である近藤勇は段々と政治の事に関心を持つようになって、弁もたつようになってくるが、そういう事に歳三は関心がない。関心のあった、自分にとって社会とは何か?という事にかかわってくる話だ。社会がどうのこうの、とか、政治がどうのこうの、とかやたらと論評したがる人間が本当に多い。でも、結局現場にたってやるようなやつはいない。政治家とかになってね。それ位だったら、自分が突き詰めたい事をやっている方が美しいと思う。何というかそういう美徳と通じる部分があったので。

どう死ぬか。生き残る事が大事なのではなくて、どう死ぬかが大事。五稜郭もやばい状態になって、降伏すれば生き残る事が出来るかもしれない、もう戦況としては勝てる見込みがない状況の中でも、降伏をしてしまったら死んだやつらにあわせる顔がないので、勝ち目がないたたかいだとわかっていても、自分が死ぬ事がわかっていても、たたかいを続けた。


燃えよ剣〈上〉 (新潮文庫)
司馬 遼太郎
新潮社
1972-05


燃えよ剣〈下〉 (新潮文庫)
司馬 遼太郎
新潮社
1972-06