オニツカタイガー

オニツカタイガーの靴を履くようになったのだが、履き心地が素晴らしい、革靴を履く意味合いというのが自分の中ではなくなってしまう程に。日々の生活の中で歩くのが楽しくなった。

きっかけは友人に借りたナイキのスニーカーだった。靴が変わるだけ気分がこんなにも変わるものなのだという事を教えてもらった、大地を踏みしめるとはこういう事なのかと、歩くという行為はこんなにも気分を高揚させるものなのかと。それからはたまにその靴を借りて、普段は自転車に乗ったりする距離を歩いてみたり、最寄り駅から一つ前の駅で降りて歩いて帰ってしてみたりした。夜道で急に走りたくなって線路沿いに全力疾走をしてみたりもした。

それからずっとスニーカーが欲しい欲しいと思っていたけれど買わず仕舞いで過ごしていたが、一度あの歩く感覚を味わってしまったが最後、革靴で歩く事が苦痛で仕方なかった。なぜ苦痛を強いてまでこの革靴を履いているのかと問うた時に他に履く靴がないからの理由以外に答えが浮かばなかった。そうであるならと、買う覚悟を決めて色々と調べる事にした。

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「スニーカー 履きやすい」という語の組み合わせで検索するとまず決まって表示されるのはニューバランスであった。ただニューバランスの靴を選ぶのはどうしても嫌だった。ニューバランスの靴を以前に履いた事はないので履き心地に関して批判する権利は全くないのだが、スニーカー×履きやすい=ニューバランス、という方程式に乗っかる事が自身の自意識に引っかかってしまった、他人がニューバランスを履く事と自身がニューバランスを履く事との間には全く関連はないのにどうしても他の大勢がニューバランスを履いている事が自身がニューバランスを履く事を躊躇わせてしまっていた。

次に目をつけたのは、アウトドアシューズだった。アウトドアシューズで有名なものを検索してみると、「メレル」や
「キーン」などが出てきた。アウトドアシューズといっても、ゴツゴツした本格的な山登り用のものではなくて、普段履きにも使用出来るものがあるらしい。自分は丈夫で長持ちしそうなものが好きだ。そういう点では、アウトドアシューズというのは水にも強そうだし、ちょっとやそっとの事では壊れたりしなさそうなイメージがある。ただ次に自身の自意識にひっかかったのは、外国製のものがほとんどという事だった。アウトドアブランドの主流はアメリカのものが多い。でもどうせなら日本製のものを使いたい。日本人の足に合ったものをどうして外国の人が作る事が出来ようか、そう思ってアウトドアシューズもとりあえず除外。同様の理由で、友人に借りたスニーカーはナイキであったが、ナイキも除外。

そこで見つかったのがオニツカタイガーだった。オニツカタイガーと聞いても、馴染みのない人が多いかもしれない。自分も靴に関して調べ始める前までは聞いた事もなかった。ただ、シューズ自体をみれば誰しもが知っているメーカーであり。それはアシックスだ。アシックスというのは、元々鬼塚さんというのが創業者で、会社の名称自体も、オニツカ株式会社というのが前身だったようだ。そこから名称変更をしてアシックス株式会社となったらしいが、アシックスのスニーカーの中でもオールドな型のものに関しては、今でも当時のブランド名であるオニツカというのを使用しているらしく、同じロゴを使用していてもアシックスとオニツカタイガーという名称が分けられている事になっているようだ。余談はさておき、メーカーはオニツカタイガーに決定。スニーカーも沢山の種類が販売されているし、日本メーカーなので、日本人の足にあった靴をつくっていそうだしという事で。

オニツカタイガーの直営店に向かう。以前の自分なら、何となく知っている自分のサイズを参考にして、ネットとかでとにかく安いものを選んで注文していたと思う。けれど、今回に関してはとにかく履き心地を重視したかったので、実際に履いてみてどうなのかという事を自分の足で確かめる必要があった。

スニーカーの種類自体は事前に決めていたのだが、色をどうするかは迷った。黒ベースのものだと落ち着きすぎている感じもして、けれど、シルバーベースのものだと子供っぽい感じもしたので、その中間だのグレイベース
のものだと、ベース以外に使われているカラーが派手な感じだったので結局黒ベースのものを選択する事にした。

次にサイズ。25.5か26かで迷った。どちらもぴったりなのだが、微妙に違いがある。前者は、フィット感がある分爪先の辺りが締まるような感じがした。後者は、多少ゆとりがあるのだが、歩く時の蹴り上げる動作の際に踵の部分の浮付く感じがある。結局、ぴったり過ぎると、長く歩いた時にむくんでしまった時にパンパンになってしまうのではないかという事を懸念して、26にする事にした。

実際に履いてみて、色に関してもサイズに関しても良い選択だったと満足している。色に関しては落ち着いていて存在感も薄いのでどの服に合わせても大丈夫。サイズに関しても、最初は多少緩いかなとい印象もあったが、靴紐を通す穴を一段高い場所まで通す事によって締め付ける事が出来たので踵の浮付きも大幅に軽減された。

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踵をガバガバさせながら歩いている人、高いヒールで歩きづらそうにしている人、これでもかと腰を締め付けたタイトなミニスカートを履いている人、爪先が今にも突き破って出てきそうな位に窮屈そうなパンプスを履いている人、色んな人がまちを歩いている。着心地や履心地が衣服を選ぶ基準において勿論全てではなくて、外観を基準にしている人は多いだろうし、自分自身も無視出来ないので外観は大事な基準だ。ただ、着心地や履心地を支えるものは自身の身体への関心であり、外観への比重が増す程に身体は無視されていくのではないか。

過去に着心地、履心地というものを基準にして、衣服を選択するという発想がなかった。基準になっていたのは、安さであったり、見た目であったり、ブランドであったり。衣食住とはよく言われるが、「食住」に関しては、食べるものがなければ飢え死にしてしまうし、住むところがなければ安心して生活出来ないから重要性は何となく理解出来ているつもりだったけれど、「衣」に関してなぜ「食住」と同列に扱われているかよく分からなかった。確かに、衣服によって体温調節をする事で生存活動につながっているという点では、生きていく上で欠かせない事かもしれないが、様々な技術革新によって衣服で充足していた生活の機能を他のもので代替出来るようになっているのも事実ではないか。そう考えると、益々人間にとっての「衣」というものが浮付いたものに思えてくる。

それでも、スニーカーを変えて気分があれだけに変化した経験を鑑みると、「衣」というものの意味合いが決して軽いものではなさそうだ、という事が実感としてジワジワと湧いてきた。



【野口整体記8】ぎっくり腰

父親の腰が急に動けなくなる程痛くなったと聞いて身体をみる事になった。

ぎっくり腰ときたので、お腹に原因があるのではないかという事を思い出した。脚のしびれがとれない件で、先生に身体をみてもらった際にも、お腹の中でも特に肝臓の部分を指摘された。色々と調べてみると梅雨の時期にぎっくり腰になる人は多いらしく、汗の内攻などが絡んできてお腹が原因となって腰に痛みとなって出てくるようだ。

話を聞いてみると、「症状を緩和するために患部に湿布などを貼って様子をみている」、と言っていたので、熱いお風呂に入ったり、クーラーではなく扇風機をつける事を伝えた。何か痛みがあった場合に、患部に直接何かを施すというセンスは一体どこからうまれてきたものなのだろうか。

なぜ腰の痛みがお腹からくるのかという事は自分の身体を使って考えてみると言葉で伝えるよりも分かりやすい。自分自身がお腹のぱんぱんに膨らんだお相撲さんの気持ちになってみるとわかる。お腹がぱんぱんになると、身体が後傾気味になってきて、すると同時に腰の辺りに圧迫感が出てくるはず。

以下は、実際に操法を行った後の覚え書き。

▼観察
・ぎっくり腰という事だったので、冷えという事を念頭に置いて臨む。
背骨の観察で気になったのは腰椎の一番が飛び出して硬くなっている感じを受けて気になるが、その事と冷えや腰という事と結び付けられずにお腹の操法へと移る
歩いている時の動作を確認した時に左腕が右腕に比べて動いていなかったので、肩峰突起の部分で確認をしてみると左腕の方を調整する必要がありそうと判断。

操法
お腹を触ってみると特に肝臓の部分がやはりカチカチであったので調整。
・三四指間を押さえて痛みが伴うよう。ただ、左脚の三四指間を触った瞬間に明確に何かを感じられる域には達しておらず。
先生に事前にアドバイスを受けていた左腕の化膿活点の調整も行うと痛みが伴うよう。
肝臓部分がカチカチである事の原因になりうるであろう場所を考えた時に、近くの場所である左側腹と左脚内腿の調整をするとこちらも痛みが伴うよう。両側腹を触ってみてもこちらは右側の方が硬いのがはっきりとわかる。

▼所感
一通り操法が終わって背骨を確認すると腰椎一番の存在感が少しだけ減って二番の存在感が多少増したように感じる。
・最後背骨を確認している時に、おならを少ししたのでガスが溜まっていた事でお腹に硬さが出ていたのではないかと感じる。
・ぎっくり腰が出てから、以前先生にみてもらった脚のしびれが多少増すようになったと言っており、脚と腰とお腹が彼の身体でポイントになってくるところなのかなと思う。

部屋の秩序

現在、居候をさせてもらっている身である。完全に好意でさせて頂いているので、特に金銭のやり取りというのは発生していない。ただ、一方的に恩恵を享受するのは気が引けるので、何が自分には出来るのかを考えた時に思い付いたのが掃除をする事であった。

幸か不幸か、宿主が部屋という空間の秩序に対して熱量を割く時間があれば他の事に時間を割くという御方であり、自身とはどうしても切り離せない空間、その中でも特に切り離す事が出来ない個人の部屋の秩序を如何に構築していくかという事に熱量を持っている私と相性が良かったらしく、家事に関しては裁量権を頂く事となった。

例えば以下のような事を実行した。

・トイレに小物入れ設置

トイレにおける整理の要点で、「床に物を置かない」というのがあると思う。洗浄用品であったり、トイレットペーパーであったりを置きたくなってしまうが、家の中でも一番狭いスペースである場所なのですぐに秩序が乱れてしまう。そして、何よりトイレの床というのは汚い。
壁に金属のタオルかけが設置してあったので、100均から吊るせるカゴを買ってきた。そうする事でトイレ床が少しでも無造作に散乱するのを見つけるや否やここに突っ込んでおけばよろしい、という場所をつくる事が出来た。

・衣服を着脱してからの洗濯機、洗濯物干しへの流れ

基本的に衣服の脱ぎ場所がなかった。洗濯機にでも直接ぶちこんでしまえば片付く話かもしれないが、中々そう簡単にはいかないようだ。何がネックになっていたかというと、ワイシャツを一回手洗いしてから洗濯をする、という彼の流儀だった。よって、着脱したものを無造作に洗濯機にぶちこんでしまえば後から取り出すのが面倒になるので直接は入れない方が確かによろしい。ただ、ワイシャツというのは大事な仕事道具なので何かの事があって汚れてしまうかもしれない。考えるべき事は、ワイシャツを直接収められる場所さえ作れば着脱したものは、ワイシャツ専用ボックスかもしくは直接洗濯機かの二択になるので、ワイシャツを収められるかごを用意する事だとした。
買い物かごを100均で購入してきた。それを洗濯機の横に設置をして、ワイシャツ専用ボックスとした。実はこれが結果的に一石二鳥の効果となって、洗濯が完了してから洗濯物を干すまでの流れも改善する事が出来た。というのも、洗濯機から洗濯物を干す場所までは多少距離があり、以前は洗濯機の中の衣類を手掴みでそこまで運んでいた。まず持ち運びにくいし、持ち運んだ先で小物などをもしかしたら無くしてしまう可能性もあった。それを、買い物かごで運ぶ事によってその二点を改善する事が出来た。

・ネクタイの管理
ネクタイは収納に難儀する。出来るだけ外した後に収納しやすく、着ける時に取り出しやすい収納が必要となる。そう考えると、押入れなどに丸めて入れるのは、外してから「丸める」という行為と、着ける際に「真っ直ぐにする」という行為が付きまとうのでネクタイには相性が良くない。
「吊るす」という行為がネクタイには相性が良さそうなのだが、意外と吊るす場所がなかったりする。その結果、外したままのネクタイがほったらかしにされており、シワがついてしまいかねないのが現状であった。ネットで色々調べてみるとネクタイ専用のハンガーが売っていたが、わざわざ買うのは勿体ないと考え、家の中にあったハンガーに細工を行ってネクタイ専用ハンガーを作成した。

所謂、自己管理

銭湯はいい。

先日、久しぶりに銭湯へ行ってきた。駅から少し離れた静かな住宅街の一角にポツンと居を構えていて、良い具合に不愛想なおばちゃんが番台をなさっている昔ながらのそれだ。勿論、瓶詰されたコーラや牛乳がこれでもかと自己主張するように収納された冷蔵庫も安定の完備。

いくら寝ても寝足りない状態になってしまっている時は自分にとって不調の信号なのだけど、寝た分だけ余計に眠くなっていき気分も滅入ってくるのは経験的に理解してきたのにその循環を断ち切って中々起きる事が難しい。そういう時だったので夜になってから銭湯に駆け込んだ。

銭湯に行き湯船に一旦浸かってしまうと、考え事をしようと思っても難しくなってしまうのだが、それが非常に有難い。日常生活を送っている中ではそういう状態に自らを置く事が困難なのでついつい考え事をしてしまう、それは能動的に物事を整理したりしているというよりも、受動的に不安に駆られてしまう類のものであって。それが、湯船に入った途端にパタンと止んでしまう。それはそれは不思議な現象である。身体が感じる、お湯の水圧であったり、水流であったり、熱であったりに意識が向いてしまうからなのか、様々に要因は考えられるが、自分には兎に角有難い空間である。

銭湯を愛好するようになったのは、ほんの1,2年位前からだろうか。銭湯だけでなく、日常の生活の中で、散歩をする事、文章を書き殴る事、掃除をする事、料理をする事に時間を割くようになったのも同じタイミングであった。その頃からだいぶ行動様式は変化してきて、とにかく行き詰ったら上記の事をするようになった。「行き詰った時は寝るのが一番!」と言う方もいらっしゃるが、自分の場合はどうもそれが性に合っていなかったらしい。

考え事をしている自分こそが善、みたいな固執はあったのは確かで。今でも覚えているものだと、小学生位の時に考え事をする時は頭の中に机があって、引き出しの中にその時自分が考えたい事が入っていた。都度都度、引き出しの中には何が入っているかを確認していたり、引き出しの中から何かを引っ張り出してきたりしていて、部屋で寝っ転がりながらそういう事をしていた。今思うと紙に書きだして整理すればそれで解決するではないかと思ってしまうが、どうやら当時の自分はそれでは満足しなかったみたいだ。












ネット中毒とスマホ解約

▼2014年2月

ネット中毒だ。ネットで行われる他人の振舞や言動が気になって仕方がない状態になってしまったら、そこから離れられなくなってネットに割く時間も増える。何となくテレビをつけてはみるが、観終った後に何も残らない事が嫌でテレビを持たない生活に変えてから何年も経つがその分ネットに割く時間が増えただけだ。何となくチャンネルをつけたテレビの映像で記憶に残っているものなんてほとんどない。それと同様で、何となく弄ったスマホの画面で記憶に残っているものなんていうのもほぼない。

以前、ネットに流れていた画像で確かこういうものがあった。2枚の写真が並べてあったのだが、1枚は写っている人たちがみんな新聞や本を読んでいるもので、もう1枚は写っている人たちがスマホの画面をのぞき込んでいるものであった。要は、昔の人も新聞や本ばっかり空き時間に読んでいたのだから、今の人がスマホばっかりみている事に対して文句を言うな、という主張がしたかったらしい。なんだか「シェア」やら「いいね」やらが沢山されていて共感も大変にされているようではあったが、自分には全く共感できなかった。やはり、本・新聞とスマホは別物だろうと。

電車の中であったり、カフェであったりでスマホをいじっている率が半端ではない。そして、自分もスマホを持っていたら同じような行動をしてしまう。ふと画面を覗いてみると、ゲームやらsnsやらをしている。ゲームやらsnsをするという行為と新聞や本を読む、という行為がどうしても同じにはみえない。ゲームやらsnsは何となく出来てしまうのに対して、文章を読むというのは何となくは出来ない。また、snsというものには、現実世界で交流がある他人若しくは現実世界では交流のない他人との間に「交流」っぽいものが存在している。そのようなネット上での交流というのは、文章の書き手である他人や文章に出てくる他人とのやり取りとは同じには思えない。

snsをやっていると、接点がなかった赤の他人でもネットで長く目にすればする程、他人がただの他人ではなくなってくる感じがある。その人たちを自分の中で、勝手に崇めたり、勝手に貶めたりしている事に気付く。赤の他人がいつからか、自らの代弁者になっていたり、自らの標的になっていたりする。赤の他人である分、それが容易く。

少し前にフェイスブックの利用解除をした。投稿される内容はつまらないものが多くを占める、というのが自分の中での理由だったが、長らく利用解除してしまう事を躊躇していたのは、そのようなつまらないものを傍から観劇する事で心の中で他人を貶める事が出来るので、悦に浸ってたのかなと。そのある種の快感もあり、やめる事
が出来なかった。

ツイッターでもフォロー数をかなり減らしてしまった。減らすかどうか散々迷ったけれど、決心した一つの理由には、このまま情報を受け取り続けていたら他人を貶めてしまう、というのがあったように思う。一方で、フォロー数を減らした分だけ、残ったフォローしている方々を自らの代弁者として観てしまう、期待してしまう度合も濃くなってしまったようにも。

他人の事はどうでもいい、と頭ではわかっているのに、言い聞かせているのに、身体は他人の事で気になって仕方がない。徐に、部屋の中からスマホを探し出して、ツイッター或はフェイスブックのサイトを開き、他人の事を覗いている。それが自分の意思とは関係がなく無意識的に行われている。こうして文章を書く事さえも、エバーノートとかに書けばよいところをツイッターに書いている。自分にとって文章や他人と、どう折り合いをつけていくのがよいのか。

ツイッター上である人間とある人間が遣り合っていて、その遣り合い対して当事者でもない人間がリプライをする形で口を挟む、もしくはリプライをしないにしろ偉そうに私見を述べたりアドバイスをしたり批判をしたりしていた。その光景が本当に気持ち悪いと思ってしまったのだ。別に当事者でもなんでもないのに安全地帯から偉そうにそのような発言が出来る神経というのが。ただ、その周辺をみて、気持ち悪さを感じた時点でアウトだったのだ。そのような他人に感じる気持ち悪さを、自分が抱えていなかったらそんな事は気にも留めていなかっただろうから。安全地帯にいる彼らが遣り合っている当事者たちを消費していたように、安全地帯の彼らを蔑む事によって、自分も安全地帯の彼らを消費していたのだ。たとえネット上であれ、他人との関係がそのような消費の上に成立しているのはあまりにも不毛過ぎる。

まずはスマホを解約する事からだなと思う。

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▼2014年4月

念願であった、スマホの解約を行った。2台持ちであった携帯電話はガラケーだけを残して、通信に関しては、スマホテザリングしていたものを、WiMAXに一元化する事に。と、同時に。8年近くもの間使用してきた、否、愛用してきたガラケーの機種ともお別れを行った。これで本当によかったんだろうかと未練が残っている。

docomo-n701i-ライトブルー×ブラウン。現在、主に流通してる携帯に比べれば玩具の様な。見た目もプラスチックの安っぽい材質で出来ており、一般的なガラケーの2倍はあるのではないかという分厚さ。服のポケットに仕舞おうものなら、俺はここにいるのだと言わんばかりに膨らんでみせる。

上記のガラケーを使用中、相手の声は聞き取れるのに、こちらの声は相手に届かなくなってしまっていた。かなり古い機種であるために既に修理が出来る機種ではなくなっている。仮にこの機種で引き続き使用を行う場合、オークションなりで同じ機種を落札してsimカードを挿入して使用するという選択肢があったが、その選択はしなかった。

ドコモのガラケーauスマホを持っていた訳だが、ドコモのガラケーはそのまま解約を行い、auスマホからドコモのガラケーmnpを行う事で、ドコモの新たな機種を0円で手にする選択肢を取る事にした。オークションで入手するとなるとその分だけ機種代金がかかる事になるし、修理関係のオプションもつける事が出来ないし、そもそも修理が出来ない機種であるし、防水機能を持っていない機種なのでまたいつ故障するかわからないしで、泣く泣くずっと使用し続けてきた愛情よりも、自らの利害損得を優先させる事に。

話が脱線した。

兎にも角にもスマホを解約して本当によかった。まず精神衛生的に楽になったのは大きい。解約したスマホ自体はまだ手元にあり、pocket Wi-Fiが手元にあるので外出先でもネットに接続しようと思えば使用出来る。ただ、スマホを持ち運ぶ手間、pocket Wi-Fiの電源を入れる手間などがある事によってスマホを持ち歩くのが面倒になり使用する時間が以前より減った。

スマホを持ち歩かないとなると、スマホによってその場しのぎになっていた事がその場しのぎに出来なくなるのでその分準備をしたりする。例えば電車の乗り換えもスマホがあれば時間の検索が出来て便利だが、ぎりぎり間に合うような時間配分をしてしまっていた。スマホがないと電車の乗り換えが臨機応変に出来たりしないので到着時間に余裕を持たせて出発したくなる。到着した後の行動も、電車の中で調べれられるという猶予がなくなるので事前にある程度決定しておく必要があるが、その分だけ電車の中でいそいそと地図を調べたりする事も少なくなった。

スマホを持っていても、自分の意思で使用する、しないを調整出来るのであれば便利なものだと思うが、生憎自分にはそれが出来なかったし、工夫するのにも限界があったのでスマホを手放してしまった。解約する前は、あれやこれやどうしようという不安があったが今は問題なくやれている。

ネット中毒とは書いてみたが、インターネット自体は存在してくれて良かったと本気で思っている、助けてもらった部分は本当に沢山ある。スマホが嫌いなだけなようだ。

【野口整体記7】三種

同居人は三種の傾向が強いのではないかと想像している。

「食べる事が大好き。」お菓子が大好きであり、休日などはテレビを観たりしながら欠かさずに食べている。「朗らかな雰囲気を持っている。」場にいると周りはやわらぐ緊張感とは程遠い存在。「体型として丸っこい。」ダイエット、ダイエットが口癖だが、残念ながら中々成果は出ていないようだ。「原色を好む。」着る物や家具は原色の物が多い。新しいソファが届いたので中身をみてみると、真っ赤のソファだった時は仰天した。「色白。」自分とは正反対。

先日、両足首に湿布を貼ってきて帰ってきたので一体何事かと尋ねてみると。いきなり痛みが出たらしい。GW明けだったので、期間中に飲んだり食べたりをよくしていたかと確認すると、まさにそのようであったらしい。

【咀嚼】『マトリックス・リローデッド』ウォシャウスキー兄弟

ザイオンに機械達が攻め込んでくるのに対して、ネオとスミスが最終決着をつける事で、ザイオンを救う。マトリックス完結編。

現実世界にあてはめながらみていた。そうするとわかりやすい気がする。世界の中で鳥取県だけが、人間が住む世界になっていて、他の都道府県や国っていうのは全部機械が支配する国になってしまっている。
それで、機械というのは人間の身体をエネルギー源にして生産活動を行っている。機械がどこにむかっているのかはよくわからない。それで、人間自体は生きてはいるのだがみんな睡眠状態になっている。睡眠している人たちは夢の中で世界を生きている。夢の中の世界がマトリックスマトリックスの世界はシステムである。いわゆるゲームの世界である。それぞれが目的によって存在している。マリオの世界。
マリオにやられるのが目的のクリボーもいれば、クッパをたおしてピーチ姫を助けるというマリオもいたりする。そこには目的があるだけで意思はない。あらかじめ決められた目的が設定されているので意思も何もない。
そのような中で、システムの秩序を保っているのがスミス。そのような目的を持たないモーフィアスなどの人間が侵入してくるのに対して、システムが壊れる事を防ぐためにエージェントが存在している。

ネオは、マリオの世界でプログラマーとして生活していたけれど、夢から覚まされて、現実世界に戻ってくる。今まで生活していたのが現実だと思っていたが、実は現実だと思っていたのは夢であったという。荘子の世界。
右往左往あり、スミスが力を持ちすぎてしまったために、ネオが闘う事によってスミスに勝ち、機械と人間との戦いが終わるっていう結末になるのだが、最後の解釈がうまく出来なかった。

電車の中ではみんながスマホをいじっている。自分もその内の一人だった。別にスマホをみているからといって何かが変わるとかそういうものではない。暇を持て余している。何となく、フェイスブックをみていたり、ツイッターをみていたりする。多分、周りの人もそうだろう。だからといって何になるという訳ではない。そういう時間が一日の中で段々と増えていっている。本当に気持ち悪いなと思う。

マトリックスの世界と何が違うというのだろうか。スマホという電子機器を通して仮想世界にアクセスしている人たち。現実の身体はそこに置いてけぼりで、今身体の目の前で起こっている現実よりも、ネット上の中での情報に一喜一憂しているのが彼らにとって自分にとっての現実。人間が機械をつかっているのか、人間が機械につかわれているのか訳がわからなくなる、無意識のところまできてしまっていた、自分の場合は。自分がスマホをみようかどうかと考える以前に、自然とスマホに手がのびてしまっている。そこに自分の意思はない。選択はない。