政治、社会、或は他人との距離感

「社会のために良い事をしよう」という風潮があるのをひしひしと感じる。「社会のために」や「他人のために」とか言っている人を見ると、本当に胡散臭いと思っていた。全ては、個人としてどう生きるか、でしかないのに、なぜ社会や他人を主語にして物事を語るのか、他人に干渉しようとするのか、他人や社会への影響というのは結果論でしかないのではないか、と思っていた。

今この瞬間、喫茶店でこうして文章を書いているのだが、隣で生命保険の若くて綺麗な女性営業マン2人が、顧客である若井男性に対して生命保険の説明している。説明を終えた後に、「他に誰か紹介出来そうな方いませんか?」という事を言っている。紹介をしてもらって、どんどん生命保険の加入者を増やした先に何があるんだろうかと考えてしまう。良い商品を作っていれば、自然と欲しい人が来るだろうし、わざわざ紹介をしてもらわないといけないという事は所詮それまでの商品なのではないか、とか色々と考えてしまう。

けれど最近は、政治や社会、或は他人との距離感が少しずつ掴めてきた。社会制度に組み込まれている一個人である、という事を再認識出来た。今、喫茶店の珈琲を消費税8パーセントで飲めているのは、日本の社会制度がそのようになっているからである。そして、今後は消費税を30%支払わないといけない社会が来るかもしれない。そうなると、今こうして喫茶店で文章を書く事なんて出来なくなるかもしれない。その背景にあるのは、国の予算。どうしてもここに縛られてしまう。支出を占めるのは、社会保障費と地方交付税で半分を占める。そして、収入は増やすには経済成長をする必要があるが、それも横ばいである事が予測されているにも関わらず、支出の方はどんどん増えていく。

そのような制度の上に成立している私を省みると、政治や社会や他人というものとの距離感がぐっと縮まってくる。上記の数字自体はあくまで数値として知っていたが少なからず現場の中で時間を割く事があり、着々と現実は進行しているのだなという事を肌で感じた。最近の流れを見ても大阪都構想を始めとして大丈夫かなと。そのような現実もさらに加わると、「お客様の笑顔が見たいのです」とか「ワクワクした社会」とかの実態のよくわからないものではなくて、同じ日本という国に住む他人、その他人たちと一緒に構成する社会、さらにはその社会を秩序づくる政治というものが立体感を持って迫ってくる。

もしかしたら隣の生命保険のお姉さんも、このまま維持出来るか全く不透明な年金制度に対して危機感を持っていて、年金制度から移行時期に必要な生命保険として顧客に説明をしているのかもしれない。生命保険が日本国民各人に様々な形態を通して浸透し、老後の事を自ら責任を持つためのインフラになるのかもしれない。そのような背景があるならば、一人でも多くの人に対して生命保険を広める事が必要だ。あそこまで貪欲になるのも納得できるな。


学習と経験

・他人のためではなく、義のため、使命のために生きる事。
少なくとも、「誰かのために」という言葉を使いさえすれば、美談に聞こえる事が大概に思えるが実際はそんなに良いものではない。他人と私とは究極的には、違う人間であるから完全には相容れない。故に完全に共感する事は不可能。自分が理想とするものに対してズレがある他人のためになぜ命と同等である時間を掛ける必要があるのかと迷う事もあったが、そもそも他人に何かを期待するという事、他人に共感しようとするという事、他人を応援するという事が自分には向いていない事が分かった。
それからは、他人のための自分ではなくて、義のため、使命のための自分という設定をする事によって精神的に楽になった。

・徒党は組まずに、出来るだけ独立自尊で生きる事。
一人ではやっていけないから誰かと協力しながらやる事になる。完全に独立自尊で生きる事なんて不可能だという事もわかっている。例えば、自分が溺愛する一人で切り盛りのラーメン屋でさえも、本当に一人だけでラーメン屋をやっている訳ではない。ぱっと見は店主一人でラーメンを作って接客をしている様には見えるが、使っている包丁、スープの具材、店舗の賃貸管理、など到底店主一人で切り盛り出来る訳ではない。役割が分業化されている事によって店主がラーメン作りに専念出来るという現状がある。
ただ何でもかんでも分業してしまえば良いという訳ではなさそうだ。

・誰しもが社会制度の中に組み込まれている一個人である事。

【野口整体記13】梅雨と腎臓、体癖

・この時期はぎっくり腰の人が多い。腎臓の疲れからきている事が多い。なぜ腎臓の疲れが出るのか。梅雨の時期というのはじめじめする。ジメジメするという事は汗をかきづらい。汗をかきづらいという事は小水で排出をしようとする。小水で排出するためには腎臓が働く事になるから腎臓が活性化する事になるので負担が出てくる事になる。

・足裏は腎臓。足裏はなぜ腎臓と関係があるのか。仮説としては、実際に立って腰をかばう姿勢をとって見ると
片方の足裏に負担が来るような立ち方をせざるを得ない。ただ、これに関しては、どの身体の偏りに関しても言える事ではないか。


・実技をする。腰椎三番の三側が消化器と関係しているのでそこを跨いで確認。その後、腎臓と関係のある足裏を確認して硬い法を愉気するという流れ。腰椎三番の見つけ方に関しては、腰椎4番が???線(要は腸骨を結んだ線)の上にあるので、腰椎4番を見つけてから、その上の腰椎3番を見つける。


・跨ぎ。手の位置に対して脚を後ろにポジションしてしまう癖がある。それによって、親指の上半分で対象を捉えようとする事になってしまう。脚のポジションを前にする事によって、対象位置に対して並行に指を持ってくる事が出来る。


・体癖を確かめてみる。腕を上下にやるのはやりづらい。首のところでつっかえる感じがする。左右にやるのもやりづらい。脇腹がはる感じがする。捻るのは右側に捻るのはやりやすいが、左側に捻るのはやりづらい。しゃがむのはやりやすい。ただ、しゃがむ時に骨盤が開く、だから骨盤が開ききっている人はもう開く余地がないからしゃがむ事が出来ないのだ、というのは実感わかず。


・視線の歪みと身体の歪み。ペンを持ってもらい、それをじっと見つめる。自分の場合は、寄り眼気味になるのが癖らしい。Sさんがペンをみている時は視線が上向きになっているのはすごく分かった。もっと正確に言えば、実際にペンのどこをみているかまではよくわからないが、視線が上向きになっている感じがする、というのがすごく良く分かった。

・「男塾」みたいな感じになってきましたね、と話があった。参加者は男三人で確かに余計にむさ苦しい感じはある。服装も暗めだし。流れている音楽も明るくはない。マニアックな場へ女性は集まらずに男性が集まる事が多いと聞く。一方で、骨盤が閉じていると内股になる傾向があるとも聞く。内股な男性を見かける事は少ないが、内股な女性を見かける事は多い。マニアックになる程に骨盤が閉じてくるとすると、マニアックな場に男性が集まるというのは矛盾してないか。女性は生理に合わせて骨盤の開閉運動があるから定期的に開く方向にも運動するから閉じる方向だけには運動しないという理屈で男性の方がマニアックになりやすい、という事なのだろうか。それでも女性の方に内股が多い傾向がある説明には必ずしもなってはいないが。女性が骨盤が閉じる方向にある理由には出産があるから、と何となく思っていた。出産するまでは子宮や子供を守るために骨盤を閉じておく必要があるのかなと。男性は女性に比べて守るべきものがないから骨盤を閉じておく必要がない。だから女性には内股が多くて男性はそうでもないのかなと。そう考えると女性でもある程度の高齢になってくると内股の人って少ないかも知れないと今思った。確かにご年配の女性の方=内股、というイメージはない。強ち仮説は間違ってはいないのかもしれないが実際のところはどうなんだろうか。まだ男性がマニアックな場に集まりやすい事の説明にはなってないが。

下着

靴下とパンツに関して検討をした結果、全て同じ種類・同じサイズ・同じ色の物を7着所有するのが良さそうだという結論になった。パンツに関しては既に実践しており、靴下に関しては移行途中という状況だ。

靴下を干している時にずっと煩わしさを感じていた。洗濯をしてから靴下を干すまでの理想の流れとして、靴下を干す際には同じ種類のもの同士でまとめて干したい。そうする事によって、いざ履くという時にわざわざ同じ種類の靴下を探さなくても済むからだ。ただ、同じ種類のもの同士をまとめて干す、という行為が曲者である。洗濯機の中から、同じ種類の靴下を見つけるという行為が必要になってくる。只でさえ暗めの色の靴下ばかりであるのに、デザインの違いも微妙なものがほとんどなので見つけるのが困難とはいかないまでも煩わしい事この上なかった。

その煩わしさが積もりに積もって、靴下の種類を毎日変える意味というのは何なのだろうか、という疑問を抱えるようになった。お洒落は足元から、とは言うけれど、お洒落さを担保するものはデザインの前に清潔感であると思うのでそれは7足持つ事によって毎日履きかえれば良さそうだし、靴下を毎日変える事で気分を変える云々は、靴下以外の部分で気分を変える要素なんていくらでもありそうだ。TPOに合わせて靴下を変える事によって云々、は確かにあるかもだが凡庸性が利きそうなベーシックな色とデザインのものであればTPOに反するところまではいかないのでは、ならばTPOを最低限順守出来そう位で丁度良い、その上で靴下に関して没個性と後ろ指刺されても全く構わない。

同じ種類の靴下だけにしてしまえば、靴下を干す前に同じ種類同士でまとめる作業も簡単だ。なぜなら全部同じ靴下だからだ。どの組み合わせでも良い。仮に日曜が洗濯する日だとして、月曜に履いたものも土曜に履いたものも洗濯してしまえばそんなに変わらないだろう、自分は気にならない。

靴下の事を考えていたら、パンツの事も疑問が。なぜ様々な種類を持つ必要があるのだろうかと。特に、このパンツを履いているから気分が良い、というのはない。いやそれは嘘だ。大体こんな材質のもので出来ているものが好きだというのはある。ただ、その好きな材質で出来ているもので全て揃えたとして何か不都合があるだろうかむしろ、全て同じ種類に揃える事によって、今日はどれにしようかなと思考する手間を省く事が出来る。勝負パンツを満を持して仕込む人間でもないし。

また、靴下とパンツは消耗品である、と割り切るようにした。靴下とパンツを高級品に変える事によって何が変わるかと自問自答した時にほとんど変わらないのでは、という話で落ち着いている。何十万もするようなそれを着用した事がないので本気で探せば惚れ込むようなものが世界のどこかに存在しているのかもしれないが、今の時点では値段に比例して何かが変わるという実感がない。

自分にとって意味を見いだせるものにはお金を多く払ってでも長く使うという事と、自分にとってどうでも良さそうなものには極力お金を払わない事を如何に両立するか、という事を考えたりする機会は多くなったが、今回の件に関しては完全に後者の位置づけである。身に着ける何れも良い物にしたいしそのためには少し高いお金でも払うようにする、という事が理想なのかもしれないがそれは無理なので、区別をしていかないと破綻してしまう。一方で、どうでも良さそうだからといってモノを適当に扱うというのもまた疑問なので長く使えるだけ使う。(ケアしたからといって長く使える期間が伸びるとは限らなそう、という理由で後者に区分けしている部分は多いにある。)

明日は明日のパンツ履く。(種類は今日と同じものだが。)

治癒としてのチラシ配り

最近はチラシを街頭で配る機会がある。傍から見れば一見単調に見える作業だけれど、それを行っている当人にとっては中々心地良いものだ。そして、チラシを配る、という行為を一つ切り取ってみても意外と奥が深い。

どこの馬の骨だか分からない奴から一歩踏み込むには、やはり挨拶というのは便利だなと思う。「挨拶をされたら挨拶を返す」という文化的な土壌を抱えてしまっているので、チラシを渡す前にお辞儀を丁寧にすれば大体の人が多少の会釈は返してくださる。それによって、どこの馬の骨だか分からないやつから多少は昇格出来ているように感じる。

ただ、お辞儀の問題を乗り越えたからと言って万事が解決する訳ではなく、お辞儀をしてから実際にチラシ手にとってもらうまでの段階も要素として分解出来る点は色々ある。例えば、チラシを相手に渡す時の手の動き。知っている人間同士の間柄でも目の前に拳をパッと出されたらウッとなってしまうだろう。知っている間柄という事と、チラシを渡されるであろう事が事前に予測出来る事を差引しても、いきなりチラシをパッと出されるのと、滑らかにチラシを出されるのとでは後者の方がウッとはならずにチラシを手に取りやすいのではないか。これには、緊張していない状態の方がチラシは受け取りやすいのではないか、という前提がある。

稽古でも良く実体験する機会があるのだが、自身の些細な動きによって他人が無意識に動いてしまう事、あるいは他人の些細な動きによって自身が無意識に動いてしまう事について。お互いが向かい合った状態で座り、ゆったりと相手の顔に手をかざすのと、スピード感を持って相手の顔に手をかざすのとの違い。後者に関しては言わずもがなで身体を後ろに仰け反らせ呼吸を止めてしまう、前者に関してはその逆で呼吸を吐きながら身体が近づいてくる。嫌悪感を示すものには、距離を置きたい、緊張・戦闘状態にする結果呼吸を止めるという事は納得出来るが、後者に関しては納得は出来ていない。

この経験を踏まえて、繰り返しにはなるが、相手を如何に緊張させないか、逆に言えば如何に弛緩してもらえるか、という事を念頭に置きながら出来るだけやるようにしている。

【野口整体記12】頭頂部と後頭部

印象に残っているのは、右側の頭部第四を緩めてもらった後に目を開けたら、左目だけが開いているような感覚になって違和感を感じた事と、頭頂部へ愉気をしてもらった後に正座をすると頭が上に突っ張られる、身体が後ろに仰け反るような姿勢になった事の2つ。

頭の疲れというのは、重さになり結果として表れる。仰向けに寝てもらって頭を持ち上げてみると、施術をする前と後では重さが違うのは面白かった。それに付け加えて少し怪しい話にはなってしまうが、頭頂部に違和感がある時には、将来の事に対しての感情を抱えており、後頭部に違和感がある場合には、過去に対しての感情を抱えているとの話もあった。これに関しては、身体と触れさせてもらった本人に確認をとっていないので、見込みの正しさの程は分からない。

どうでもよい事かもしれないが、正座で畳の上を移動する際、膝の全面積を利用して滑ろうとすると、スピードも遅いし、ズボンの膝頭部分に摩擦が生じて傷も付きやすいが(現に右膝頭が破れてしまった)、足の甲で滑るように移動すれば、移動も早く、膝頭も破れにくそうだな、という発見が些細な嬉しい出来事だった。

消しゴム操法。施術の効果を消しゴムの様に消してしまうからそのような名称。一方、身体を揺すって身体全体に馴染ませたり身体の状態を確認したりするものもあって紛らわしい。何か巧い言い回しの名称を付けてしまいたい。消しゴム操法の時の身体の使い方。左手に体重を乗せる。

稽古が終わってから丁度一週間後に下痢が襲ってきた。それまでは便秘気味であったのに。手の親指と人差し指の間の皮をつまんでみると、左側の皮が薄くなっていた。

【野口整体記11】春に向けた準備

春には冬に溜めた分を排泄したい。排泄すると中にあったものが出ていくからその分緩む。緩む前は身体の右側が硬くなっている。なぜなら排泄と関係のある肝臓があるから。頭も肩もお腹も腰も右側が硬くなっている事が多い。故に春前のこの時期は右側をやる事が多い。

原理原則として、お腹の上部と脚の下部がつながっており、お腹の下部と脚の上部がつながっている。これはどういう解釈をすればよいのだろうか。という疑問を持っていたら、「お腹と脚の繋がりは、脛の内側を力ませるとお腹の上部が固くなり、太ももを力ませるとお腹の下部に響く感じがあります。」とのアドバイスを頂き、実際にやってみたが、わかるようでわからない感じだ。

途中くしゃみがとまらなくなった。先生から右側の鼻が詰まっているでしょ、と言われたが詰まっていたのは左側だった。多分、肝臓が硬いイメージがあるからそういう事を言われたのだろう。触ってみると左側腹の方が硬かった。側腹が詰まっている方の鼻も詰まっている、のが原理原則。

肩甲骨剥がし。緩ませたいから、硬くなっている方をやる。頭、お腹、腰と硬くなっている方をやるのは納得したが、なぜ肩甲骨剥がしは分厚い方をやるんだろうと疑問を持った。分厚い=緩んでいる、とイメージを持ったため。イメージし直してみると縮こまるから分厚くなるなと納得。人口密度みたいなイメージで捉えれば分かりやすいだろうか。