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治癒としてのチラシ配り

最近はチラシを街頭で配る機会がある。傍から見れば一見単調に見える作業だけれど、それを行っている当人にとっては中々心地良いものだ。そして、チラシを配る、という行為を一つ切り取ってみても意外と奥が深い。

どこの馬の骨だか分からない奴から一歩踏み込むには、やはり挨拶というのは便利だなと思う。「挨拶をされたら挨拶を返す」という文化的な土壌を抱えてしまっているので、チラシを渡す前にお辞儀を丁寧にすれば大体の人が多少の会釈は返してくださる。それによって、どこの馬の骨だか分からないやつから多少は昇格出来ているように感じる。

ただ、お辞儀の問題を乗り越えたからと言って万事が解決する訳ではなく、お辞儀をしてから実際にチラシ手にとってもらうまでの段階も要素として分解出来る点は色々ある。例えば、チラシを相手に渡す時の手の動き。知っている人間同士の間柄でも目の前に拳をパッと出されたらウッとなってしまうだろう。知っている間柄という事と、チラシを渡されるであろう事が事前に予測出来る事を差引しても、いきなりチラシをパッと出されるのと、滑らかにチラシを出されるのとでは後者の方がウッとはならずにチラシを手に取りやすいのではないか。これには、緊張していない状態の方がチラシは受け取りやすいのではないか、という前提がある。

稽古でも良く実体験する機会があるのだが、自身の些細な動きによって他人が無意識に動いてしまう事、あるいは他人の些細な動きによって自身が無意識に動いてしまう事について。お互いが向かい合った状態で座り、ゆったりと相手の顔に手をかざすのと、スピード感を持って相手の顔に手をかざすのとの違い。後者に関しては言わずもがなで身体を後ろに仰け反らせ呼吸を止めてしまう、前者に関してはその逆で呼吸を吐きながら身体が近づいてくる。嫌悪感を示すものには、距離を置きたい、緊張・戦闘状態にする結果呼吸を止めるという事は納得出来るが、後者に関しては納得は出来ていない。

この経験を踏まえて、繰り返しにはなるが、相手を如何に緊張させないか、逆に言えば如何に弛緩してもらえるか、という事を念頭に置きながら出来るだけやるようにしている。