武道とスポーツ

武道を始めようと思い、様々な道場を見学させて頂いている。

先日、ある合気系の武道を見学させて頂いた。合気道と云えば、塩田剛三氏の動画が真っ先に思い浮かぶが、そのイメージに近い光景が眼前で繰り広げられていた。技の受け手が腕を掴みに行っても、攻め手が軽く身体を動かすだけで、受け手は後ろに吹っ飛んでしまうような。

稽古を観察していると気になる方が一人いらした。その方だけは師範の技を受けても技の掛かりが良くなかったからだ。技を掛けられても派手には吹っ飛ばずに、よろよろと空気を呼んで倒れ込んでいるように自分には映った。他の方は、顔をしかめっつらにして、首をふんぞり返して、時には雄叫びをあげながら吹っ飛んでいるにも関わらず。

自分自身はただ座って見学していただけで、実際に技を受けた訳ではないが故に、受け手の視点からは何も言う事が出来ない。また、武道とは受け手の技術も技を構成する大きな要素だというのであれば、先ほどの例は受け手の技術が低い事の最もたるものなのかもしれない。ただ、何だか腑に落ちないなあと。結局内輪ネタじゃないか、と感じてしまったのだ。

「武道は近代になるにつれスポーツ化が進み、武道の精神は失われた」という言説はよく耳にするところだ。この論理は、競技をする事、争う事、試合をする事は元々武道にはなかった、という起源を大切にしているように素人ながら解釈している。しかし、武道が生まれた源流をもっと遡ってみると、戦国時代の戦いの中から生まれた柔術などの存在は避ける事は出来ない。つまり、スポーツよりも遥かに血みどろな世界が武道の源流としてあるのではないかと考えると、武道のスポーツ化という現代社会の中で源流に立ち戻ろうとする姿勢として自分には映ってしまう。その視点に立って先の出来事を振り返ると、相手の技量に寄って技の掛かり具合が変化してしまう武道を源流と比べると如何に違うものになってしまったか、と思ってしまう。

確かに、競技化をする事によって危険な技は削除されてしまったりと伝承を絶やす事につながる弊害がある一方で、競技化する事によって内輪ネタのなり過ぎを防ぎ伝承にも良い影響も出てくるのではないか。武道選びにおいては、演武と実戦のバランスをどのように捉えていこうかと考える良い機会となった。