ヒッピー

「正直、社会なんてどうでもいいんですよ。社会を変えたい人がいたとして、そのために事業を起こすっていうのがよくわからない。別に社会を変える事自体に否定的な意味ではなくて、社会を変えたい、そのために事業を起こす、っていう論理がよくわからない。社会が変わるっていうのは結果論でしかなくて、社会が変わる時っていうのは誰かがある生き方をしていて、それに感銘をした人が真似をするようになってそれがどんどん拡がっていくっていう流れが自然だと思うんですよね。あまりにも社会を変えたい、とか言っている人たちの生活や暮らしっていうのが抜け落ちてしまっているように自分は感じられてしまうから、そこに胡散臭さを感じてしまうんですよね。」

という旨の発言をした。すると、「それを突き詰めていっちゃうと、ヒッピーになっちゃうんじゃない?」という言葉を一緒にいたある方にもらった。ヒッピーに近づいている実感というのは今まで全くなくて、寧ろ胡散臭い人たちだなとしか思っていなかった。言われた時は彼の発言が何だかわかったような分からないような感じであったが、自身の咀嚼しておきたい話である事には間違いなさそうだ、という感覚は持った。

ヒッピーになってしまう、とはどういう事なのか。ヒッピー像を簡単に定義すると、山奥で自給自足の生活をしている人たち。何者、何物にも依存せずに、何かに対して刃向う事もしようともせず変化させようともせず、ひたすらに自身が思い描く理想の生活を実践していく人たち。多分、彼の言いたかった事というのは、社会に対して関心を持たずに自分の暮らしだけにしか関心を持たないとなると、最終的には一人で孤立するしかなくなってしまうんじゃない?という旨の事が言いたかったのではないだろうか。

彼から見えている自分というのは、社会にも他人にも関心がなくて、さらにはお金を稼ぐ事にも関心がなくて、自分にしか関心が向いていない人間、という感じだろうか。そうだとするならば、誤解を与えている部分は大きい。社会や他人に関心はあるけれど、それを無理に変えようとする事には関心がないだけであって、お金は沢山持っていたい。

自分が言いたかった事というのは、改めて何だったのだろうか。社会に対しての振舞いと、その人の生活や暮らしの場面での振舞が一致しているかどうか、という事かな。その時は環境やエコについての話をしていたから、それを例に出すと、「環境にやさしい〇〇をつくりたい」とか言っている癖に、その人の暮らしや生活では、ゴミをポイポイ捨ててみたり、ゴミ捨てで分別せずに適当に出していたりみたいな人がいたとしたらその人の事を胡散臭いと思ってしまう。その生活を突き詰めていくと生きている事自体が環境に悪いから山奥で自給自足、という話になっていくのかもしれない。ここまで書いてみて、彼の言いたかった事を今度は自分が誤解していたのかもしれない。生活や暮らしを大事にするとして、それを突き詰め過ぎてしまうと、社会から孤立してしまうのではないか、という事を彼は言いたかったのではないだろうか。

先日、"ある方たち"を対象に就業支援を行っている会社の方と話す機会があった。話を聞いていて一番聞きたかった事は、"ある方たち"が暮らしやすい社会をつくる事を目的として事業をやっているのはわかったけれど、ではその会社で実際に"ある方たち"を雇っているのかという事だった。今は余裕がなかったとしても将来的には見据えていさえすれば、と思いながら聞いてみたが、あまり納得感のある回答をもらえなかった。別にその会社が事業をしっかり成功さえさせていれば、"ある方たち"をその会社で雇っているかは些細な事ではないかもしれない。虫歯があるけれどそのまま放置している歯医者、野菜を大量に作っているけれど農薬を沢山使っているから自分の家では食べない農家、と同じように感じてしまった。他人に対して、"ある方たい"を就業するようにお願いするならば、まず自分の会社で雇う事が何よりも大事なのではないかと。

自分の感覚というのは、どこかおかしいのだろうか。社会を変えたい、とか、より良い社会をつくりたい、とかの言葉が嘘にしか聞こえないのだ。いや、本当に社会を変えたくて自分の身なんてどうでもいいんだ、って思いながらやっているだっていると思うし、他人と自分の境目がなくなっていて他人が豊かになる事がそのまま自分が豊かになる事だから、他人のために自然とやれている人もいると思うし。ただ、そういう人たちの話を聞いていたり、文章を読んでみたりしても、その人の生き様というかその人自身が自分には感じる事が出来ない。

(書きかけ)