所謂、自己管理

銭湯はいい。

先日、久しぶりに銭湯へ行ってきた。駅から少し離れた静かな住宅街の一角にポツンと居を構えていて、良い具合に不愛想なおばちゃんが番台をなさっている昔ながらのそれだ。勿論、瓶詰されたコーラや牛乳がこれでもかと自己主張するように収納された冷蔵庫も安定の完備。

いくら寝ても寝足りない状態になってしまっている時は自分にとって不調の信号なのだけど、寝た分だけ余計に眠くなっていき気分も滅入ってくるのは経験的に理解してきたのにその循環を断ち切って中々起きる事が難しい。そういう時だったので夜になってから銭湯に駆け込んだ。

銭湯に行き湯船に一旦浸かってしまうと、考え事をしようと思っても難しくなってしまうのだが、それが非常に有難い。日常生活を送っている中ではそういう状態に自らを置く事が困難なのでついつい考え事をしてしまう、それは能動的に物事を整理したりしているというよりも、受動的に不安に駆られてしまう類のものであって。それが、湯船に入った途端にパタンと止んでしまう。それはそれは不思議な現象である。身体が感じる、お湯の水圧であったり、水流であったり、熱であったりに意識が向いてしまうからなのか、様々に要因は考えられるが、自分には兎に角有難い空間である。

銭湯を愛好するようになったのは、ほんの1,2年位前からだろうか。銭湯だけでなく、日常の生活の中で、散歩をする事、文章を書き殴る事、掃除をする事、料理をする事に時間を割くようになったのも同じタイミングであった。その頃からだいぶ行動様式は変化してきて、とにかく行き詰ったら上記の事をするようになった。「行き詰った時は寝るのが一番!」と言う方もいらっしゃるが、自分の場合はどうもそれが性に合っていなかったらしい。

考え事をしている自分こそが善、みたいな固執はあったのは確かで。今でも覚えているものだと、小学生位の時に考え事をする時は頭の中に机があって、引き出しの中にその時自分が考えたい事が入っていた。都度都度、引き出しの中には何が入っているかを確認していたり、引き出しの中から何かを引っ張り出してきたりしていて、部屋で寝っ転がりながらそういう事をしていた。今思うと紙に書きだして整理すればそれで解決するではないかと思ってしまうが、どうやら当時の自分はそれでは満足しなかったみたいだ。