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ネット中毒とスマホ解約

▼2014年2月

ネット中毒だ。ネットで行われる他人の振舞や言動が気になって仕方がない状態になってしまったら、そこから離れられなくなってネットに割く時間も増える。何となくテレビをつけてはみるが、観終った後に何も残らない事が嫌でテレビを持たない生活に変えてから何年も経つがその分ネットに割く時間が増えただけだ。何となくチャンネルをつけたテレビの映像で記憶に残っているものなんてほとんどない。それと同様で、何となく弄ったスマホの画面で記憶に残っているものなんていうのもほぼない。

以前、ネットに流れていた画像で確かこういうものがあった。2枚の写真が並べてあったのだが、1枚は写っている人たちがみんな新聞や本を読んでいるもので、もう1枚は写っている人たちがスマホの画面をのぞき込んでいるものであった。要は、昔の人も新聞や本ばっかり空き時間に読んでいたのだから、今の人がスマホばっかりみている事に対して文句を言うな、という主張がしたかったらしい。なんだか「シェア」やら「いいね」やらが沢山されていて共感も大変にされているようではあったが、自分には全く共感できなかった。やはり、本・新聞とスマホは別物だろうと。

電車の中であったり、カフェであったりでスマホをいじっている率が半端ではない。そして、自分もスマホを持っていたら同じような行動をしてしまう。ふと画面を覗いてみると、ゲームやらsnsやらをしている。ゲームやらsnsをするという行為と新聞や本を読む、という行為がどうしても同じにはみえない。ゲームやらsnsは何となく出来てしまうのに対して、文章を読むというのは何となくは出来ない。また、snsというものには、現実世界で交流がある他人若しくは現実世界では交流のない他人との間に「交流」っぽいものが存在している。そのようなネット上での交流というのは、文章の書き手である他人や文章に出てくる他人とのやり取りとは同じには思えない。

snsをやっていると、接点がなかった赤の他人でもネットで長く目にすればする程、他人がただの他人ではなくなってくる感じがある。その人たちを自分の中で、勝手に崇めたり、勝手に貶めたりしている事に気付く。赤の他人がいつからか、自らの代弁者になっていたり、自らの標的になっていたりする。赤の他人である分、それが容易く。

少し前にフェイスブックの利用解除をした。投稿される内容はつまらないものが多くを占める、というのが自分の中での理由だったが、長らく利用解除してしまう事を躊躇していたのは、そのようなつまらないものを傍から観劇する事で心の中で他人を貶める事が出来るので、悦に浸ってたのかなと。そのある種の快感もあり、やめる事
が出来なかった。

ツイッターでもフォロー数をかなり減らしてしまった。減らすかどうか散々迷ったけれど、決心した一つの理由には、このまま情報を受け取り続けていたら他人を貶めてしまう、というのがあったように思う。一方で、フォロー数を減らした分だけ、残ったフォローしている方々を自らの代弁者として観てしまう、期待してしまう度合も濃くなってしまったようにも。

他人の事はどうでもいい、と頭ではわかっているのに、言い聞かせているのに、身体は他人の事で気になって仕方がない。徐に、部屋の中からスマホを探し出して、ツイッター或はフェイスブックのサイトを開き、他人の事を覗いている。それが自分の意思とは関係がなく無意識的に行われている。こうして文章を書く事さえも、エバーノートとかに書けばよいところをツイッターに書いている。自分にとって文章や他人と、どう折り合いをつけていくのがよいのか。

ツイッター上である人間とある人間が遣り合っていて、その遣り合い対して当事者でもない人間がリプライをする形で口を挟む、もしくはリプライをしないにしろ偉そうに私見を述べたりアドバイスをしたり批判をしたりしていた。その光景が本当に気持ち悪いと思ってしまったのだ。別に当事者でもなんでもないのに安全地帯から偉そうにそのような発言が出来る神経というのが。ただ、その周辺をみて、気持ち悪さを感じた時点でアウトだったのだ。そのような他人に感じる気持ち悪さを、自分が抱えていなかったらそんな事は気にも留めていなかっただろうから。安全地帯にいる彼らが遣り合っている当事者たちを消費していたように、安全地帯の彼らを蔑む事によって、自分も安全地帯の彼らを消費していたのだ。たとえネット上であれ、他人との関係がそのような消費の上に成立しているのはあまりにも不毛過ぎる。

まずはスマホを解約する事からだなと思う。

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▼2014年4月

念願であった、スマホの解約を行った。2台持ちであった携帯電話はガラケーだけを残して、通信に関しては、スマホテザリングしていたものを、WiMAXに一元化する事に。と、同時に。8年近くもの間使用してきた、否、愛用してきたガラケーの機種ともお別れを行った。これで本当によかったんだろうかと未練が残っている。

docomo-n701i-ライトブルー×ブラウン。現在、主に流通してる携帯に比べれば玩具の様な。見た目もプラスチックの安っぽい材質で出来ており、一般的なガラケーの2倍はあるのではないかという分厚さ。服のポケットに仕舞おうものなら、俺はここにいるのだと言わんばかりに膨らんでみせる。

上記のガラケーを使用中、相手の声は聞き取れるのに、こちらの声は相手に届かなくなってしまっていた。かなり古い機種であるために既に修理が出来る機種ではなくなっている。仮にこの機種で引き続き使用を行う場合、オークションなりで同じ機種を落札してsimカードを挿入して使用するという選択肢があったが、その選択はしなかった。

ドコモのガラケーauスマホを持っていた訳だが、ドコモのガラケーはそのまま解約を行い、auスマホからドコモのガラケーmnpを行う事で、ドコモの新たな機種を0円で手にする選択肢を取る事にした。オークションで入手するとなるとその分だけ機種代金がかかる事になるし、修理関係のオプションもつける事が出来ないし、そもそも修理が出来ない機種であるし、防水機能を持っていない機種なのでまたいつ故障するかわからないしで、泣く泣くずっと使用し続けてきた愛情よりも、自らの利害損得を優先させる事に。

話が脱線した。

兎にも角にもスマホを解約して本当によかった。まず精神衛生的に楽になったのは大きい。解約したスマホ自体はまだ手元にあり、pocket Wi-Fiが手元にあるので外出先でもネットに接続しようと思えば使用出来る。ただ、スマホを持ち運ぶ手間、pocket Wi-Fiの電源を入れる手間などがある事によってスマホを持ち歩くのが面倒になり使用する時間が以前より減った。

スマホを持ち歩かないとなると、スマホによってその場しのぎになっていた事がその場しのぎに出来なくなるのでその分準備をしたりする。例えば電車の乗り換えもスマホがあれば時間の検索が出来て便利だが、ぎりぎり間に合うような時間配分をしてしまっていた。スマホがないと電車の乗り換えが臨機応変に出来たりしないので到着時間に余裕を持たせて出発したくなる。到着した後の行動も、電車の中で調べれられるという猶予がなくなるので事前にある程度決定しておく必要があるが、その分だけ電車の中でいそいそと地図を調べたりする事も少なくなった。

スマホを持っていても、自分の意思で使用する、しないを調整出来るのであれば便利なものだと思うが、生憎自分にはそれが出来なかったし、工夫するのにも限界があったのでスマホを手放してしまった。解約する前は、あれやこれやどうしようという不安があったが今は問題なくやれている。

ネット中毒とは書いてみたが、インターネット自体は存在してくれて良かったと本気で思っている、助けてもらった部分は本当に沢山ある。スマホが嫌いなだけなようだ。