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【野口整体記6】変わりたくない、変えられない、変わってほしい

父親は脚に不自由がある。高齢にはなったが、脚をわずかに引きづりながらまだ現役で力仕事をしている。(引きずるといっても端から見たら、多少痛みがあるのだなそうか、という程度ではある。)

事の発端は、ある日突然、片脚のふくら脛辺りに痺れが出た事によるらしい。しばらく放っておいても回復する見込みがないので病院に行ったところ、手術をする必要があると診断された。脊髄の神経に原因があると医者は見込んだらしく、脊髄の静脈と動脈の癒着を切断するという全身麻酔を伴う大がかりな手術であったようだ。自分は当時まだ小学生そこらの年齢であったのでほぼ記憶はないが、手術後の病室の風景は今でも覚えていて、暗い病室のベッドで父親が口に人工呼吸器をつけたまま麻酔で寝ていた。常日頃、強く、厳しい父親が、人工呼吸器によって生かされているような弱々しい姿になってしまうなんて、もしかしたらこのまま起きなくなってしまうかもしれない、という恐怖があったように記憶している。

手術から何年も経つが、経過は良くなるどころかもう一方の脚まで痺れが出るようになってしまった。元々痺れが出ていた方の脚は以前よりもひどくなり、極稀に激痛までもが生じるようになってしまった。当時、手術を担当していた医師はどこか別の病院へ異動してしまいこの件に関しては父親もこの状態を受け入れて生きていくしかないのだ、と腹を括っているようだった。

丁度最近になって、父が整体の先生の近くに用事で訪れる事になったので、思い切って先生のところで診てもらう事をすすめた。父は、現代の医療でだめになってしまった脚であるからもうどうにもならない、という主張の一点張りではあったが、それでも行く前からああだこうだ言っていたって仕方がないという事で諭し自分も同行して先生の元へ向かった。現在身体がどのような状態であるのか、それはどのような経緯からそのようになっているのか、という事を父親が先生に話す。どれだけ自分がどうしようもない状態にあるのか、というニュアンスが伝わってくる。そのどうしようもなさに自分も同調して、藁にもすがるような状態で先生の施術を待った。

一通り父の身体に触れて先生から出た診断は、骨盤が収縮し過ぎてしまっている事と塩分糖分を過剰に摂取している事であった。その診断に対して父は深刻に聞いているという感じではなく、聞き流しているというような感じで、先生からの説明が一通り終わるとまた先ほど話していたような現状に対する諦めを話し出す。それに対して先生が日常を変えるのは大変だとは思うし、やってみて始めて自分の見立てが正しかったかがわかるが、今やっておかないと手遅れになってしまってからでは遅いと伝える。そして、父が諦めを話しだす。その繰り返し。会話が全く噛み合っていない。

このやり取りを聞く中で、自分の中に仮説が生まれてしまった。もしかしたら父はこの症状を自分自身が原因で発生させてしまった事を認めたくないだけではないのだろうか、という仮説。彼は毎日、250mlのビールで晩酌をし、スーパーの買い物袋一杯のお菓子を買ってきては、食後にはそれを嗜むのが習慣だ。言われてみれば、先生の見立てはかなり的をついているのではないかと感じる、あくまでそれらを控えた結果どうなった、という事からしか検証できないにしても。ずっと父に現在どのような症状であるのか、その症状が手術によってどうなってしまったか、という事を聞かされてきた。医学に対して憤りも持っていた、西洋医学なんてやはり信用するには値しないものだ、なぜそのような医学が常識とされていて皆が信じ込んでしまっているのか、それを信じ込んでいる方も愚かだ、というように。

でもよくよく冷静になってみれば、確かに片脚だけの痺れが両脚までに及んでしまったのは手術を受けた後からではあるが、手術を受ける前から片脚に痺れが出ていたのである。つまり、片脚に痺れが出ていたのは手術以外の何らかの原因があるはずで。その原因を先生は上記のところに見立てた。思い込みが一気に崩れる経験。
帰り際、先生が平然と去っていく父にわざわざ玄関のところまで歩み寄ってきて、「日常を変える事は本当に大変だと思いますが。。」と伝えに来てくれたのには驚いた、普段はそういう事をする人ではないのに。それでも父は「十分わかってますよ!」と全くわかっていない様子であった。

他人なんてどうでも良い、と以前にも増して思うようになったし、それが態度や行動に出るようになっている。それは他人を適当に扱うという意味では自分の中ではなくて。自分の支配下に置けないものにはそれなりの対応の仕方があるのではないか、という試行錯誤というか。だから、逆に他人あるいは社会に対して意識を向けすぎているような人を見ると傲慢だなと感じてしまう、以前の自分をみているようで嫌悪感を持ってしまうのだろう。一方で、家族という枠の中での父親と自分という関係になってしまうと、良くなってほしい、変わってほしい、と思ってしまう自分もいる。他人なんてどうでも良い、どうする事が出来ない、という諦めと同じ次元で、家族に対して抱く感情というのもどうする事も出来ない、と諦めてしまっているのが現状。

先日、父親の家庭での様子を見たら、250mlビールの晩酌と食後のお菓子時間は何も変わっていなかった。それに対して自分は特に何も言う事はしなかった。後日、母親と2人でスーパーに行った際、食後の楽しみにとついつい買ってしまう自分用アイスを買わずに帰る事位しか出来なかった。