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【野口整体記4】型と正解

高校時代、英語が苦手な科目から好きな科目になった経験がある。学校曰く、英語に力を入れているようだったので、毎週月曜の朝には短文の暗記テストがあったり、定期的に単語のテストがあったりと、何かと熱心な学校であった。赤点をとったりすると、再テストをする必要があったので覚える方も登下校中の電車の中などで必死になっていた記憶がある。

ある時期まではそれなりにこなしていたが、ある時期からは記憶の許容量を超えてしまって、英語が嫌いになってしまった。それまでの単語や文法の覚え方は、英語ノートを準備して、一行毎に「speak」だったらその単語をひらすら書いて、次の行には違う単語をひらすら書いて覚えていく手法を取っていた、単語をぶつぶつ発音しながら。手法を取っていた、と言えば多少語弊があって、そういう形式の宿題が学校から出されていたのでそれが定式化していた。

そこからどんな紆余曲折をして辿り着いたかは覚えていないが、自分の中で腑に落ちる単語や文法との付き合い方を見つける事が出来た。それはある本と出会えたのがきっかけで。「ハートで感じる英文法」という本なのだが、この本の趣旨としてはただ単語や文法を丸暗記して覚えるのではなくて、単語や文法の背景にあるイメージを掴みさえすれば単語や文法を理解出来て覚える事自体は自然と後からついてくる、というようなものであった。これが見事にはまって、その著者の関連本まで買い漁って、英語は次第に好きになっていった。

それからは、英語の授業で教えてもらっている事は極めて表面的なものでしかない、という確信(というべきか思い込みというべきか)が出来てしまって、それが英語以外の場面でも学習に対する姿勢となって多いに出ていたと思う。今、目の前で教えてもらっている事の背景にこそ大事なものが存在し説明がなされている物事に対して「なぜ」を繰り返していけば合理的な説明が必ず存在しており、それさえ見つける事が出来れば無駄に思えるような暗記や反復をしなくても自然と楽しく学んでいく事が出来るのではないか、という風に。それが恩恵になる事もあれば、逆に呪縛にもなったりもしたが、兎にも角にも自分の姿勢に影響する大きなものとなった。

時は流れて。最近は、型というものを学ぶ機会が多い。整体においての基本姿勢は正座だ。活元をする際も、愉気をする際も、操法をする際も、基本は正座で行う。また同様に、この手技の時はこのような手の配置で行います、相手に対してこのような位置関係で行います、というように、技術の数だけ型が存在している。

自分の場合、その型の一つ一つに意味付けをしないと落ち着かない、なぜこの場面ではこの型をするのか、それ以外の方法ではダメなのか、というように。確か、ある型を練習している時に、蹲踞をするか正座をするかこんがらがっていた時があって、それを先生に尋ねてみたら、「実際に両方やってごらんなさい。」と言われた事がある。正座のままだと、相手の身体に体重が乗り切らないのに対して、蹲踞をすると、蹲踞をしている分上半身が自由に使えるので体重が乗る事で相手の身体に自分の力が楽に伝わった。

ある表出された正解。それに対して論理や思考や言葉で潜っていけば、納得のいくものに必ず辿りつけるものだと思っていたものが一気に氷解した瞬間、身体を通して考えるというやり方によって。言語を媒介にして習得していくものと、身体などの非言語を媒介に習得していくものとでは学習の進め方において突き詰め方が違うという事を学んだ。「頭で考える前に、とにかくやってごらんなさい。」という言葉が、これ程までに真実味を持って迫ってきた経験というのはなかった。


ハートで感じる英文法―NHK3か月トピック英会話 (語学シリーズ)ハートで感じる英文法―NHK3か月トピック英会話 (語学シリーズ) [ムック]
大西 泰斗
2005-12