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【野口整体記2】技術の位置付け

現在、先生の間近で技術を見られる立場にあり。説明を行ってくださった上で技術を披露をもらえ、実際に自らも真似をしてやってみる、という繰り返しで成立している。かといって、先生が見本としてやった事をすぐに出来るかといったらそれが出来ない。

技術とは何か、教えるとは何か、を考える際に、「言葉にはしてもらってはいるがいざ自分がやろうと思っても真似をする事が出来ない」この性質こそが、技術の本質的なものをあらわしている。「技術は見て盗め」とはよく言われるけれども、ただ教える側が不親切であるからというよりも、教える事が出来ないから盗んでもらうしかないが故の言葉だと感じる。
教えられないとは言葉に出来ない事であり、なぜ言葉に出来ないかというと、技術というものはそれを使う人間の身体に左右されるものであるから。身体に左右されてしまう事という事は、いくら表面的な技術だけを真似しても、それを扱っている人間の身体が技術を決めるのだから、身体が技術に伴っていないと技術を技術として扱えないという事。

先日、実家に帰っていた。父親電気工事、修理関係の仕事をおこなっている。彼は仕事の場面では一切手を抜かない性質の人間であるが、日常の場面でもそれが色濃く出ている。携帯電話の充電器を持って帰っていて、ケーブルが痛むような使い方をしているのを見るや否や、こっぴどく叱られた。「ものを大事にせんようやつは、ほんに嫌いだけ。」と言いながら何だかんだ直していたりする。
昔からそうで、何か家の物が壊れたりすると新しいものに買い替える前にまず直すという選択肢が彼からは出てくる。最近では仕事に同行する機会が段々と増えるようになってきたが、日常の生活と仕事との間に矛盾がない。この矛盾のなさ、というのは、最近お会いした方で何か感じるものがあった方の共通点かなと思っている。

マニュアル化が進んだり、情報共有が容易になったり、色んな背景も積み重なって、色んな情報が錯綜している流れが確かにある。そのような中で生きていると、往々にして表面的な技術に目がいってしまいがちだ、自分も易きに流されやすい方でもあるし。
提示されているものをなぞれば簡単に出来そうな気もして簡単にとびかかってしまう。またそのとびかかりやすさによって、相手に求めるものもとびかかり易いものを求めがちになっていくそんな中で。技術者の背景にある、技術を技術として成立させている要件を一つずつ潰していって、技術以前の状態をどれだけ近いものに出来るかという事へ目をやる事で初めて上っ面をなぞるだけではない姿が見えてくるのではないか。

技術以前の技術者の状態、技術を施す場面以外での技術者の振る舞い。そういった事を大切になさっている方の元で学べる経験は本当に代えがたい。